2009年11月30日月曜日
日本橋室町福徳塾
日本橋の文化発信拠点”室町 福徳塾”で3周年記念の特別講座『これからの日本文化と日本橋』があり、拝聴に。講師は作曲家三枝成彰氏と、建築家團紀彦氏。團さんとは、学生時代にアルバイトをさせていただいたのがきっかけで、以降、海にもぐっての魚突きのお付き合いをさせていただいている。魚突きの恩師というわけだ。講演は、三枝さんがリードし、團さんがコメントを加える様な形で始まった。お題にもある”これからの日本文化を語る”にあたり、過去、現在の日本文化を、西洋文化との比較の中から相対的に定義付け、未来の予測につなげるような、キックオフだった。三枝さんのお話の中でも興味深かったのが、所謂、オペラやクラシックと呼ばれる音楽概念が日本に輸入されて久しいが、受け取り手である聴衆の意識が西洋と、日本とではまったく異なるにもかかわらず、西洋の音楽概念(=道具とおっしゃっていた)で日本の心を語れるはずがないと、言い切っていた。音楽とはメッセージを伝える道具としての認識がある西洋に対し、なぐさめや、癒しや、感動といった情緒に働きかける媒体といった認識の強い日本。その先にある答えは、この場で僕のような畑違いがコメント出来るような内容ではないので割愛するが、自身のおかれた専門領域の抱えるジレンマをスパッと言い切る姿勢に共感と羨望を覚えた。そういえば、建築(アーキテクト)という概念も、西洋からの輸入ものだ。江戸時代以前には大工の棟梁が職人のキャスティングも、設計監理も、積算も、現場管理も、行っていたわけで。。。。。。感慨深い。
2009年11月12日木曜日
セミナー
ビックサイトで開催中のジャパンホームショー2009の1ブースに建築知識が構える”実務セミナー”で、コメンテーターとして”設計事務所・工務店の営業・運営術”に参加させていただいた。僕のような若輩者がセミナーするような内容ではないのだが、勇気と愛を持って挑んでみた。相方は建築家ARSNOVA代 表、森山高至氏。ほとんど、この方がトークしている内容に、少々突っ込みを入れる程度の役回りだったので、終わってみると思ったほど大変ではなかった。森 山氏とは、先月発売された建築知識10月号のDVD企画で出会ってからのお付き合いだが、活動範囲が所謂、設計事務所の枠を超えていて、毎回驚かされる。 例えば、”建築WEB”。これも氏が発起人で立ち上げた住まい作りの総合WEB SITEだとか。建設や設計にかかわるさまざまな企画と、企業コンサルティングを手がけられている。セミナー終了後、打ち上げと称して、一杯。関係者の皆様、お疲れ様でした。

データは建設投資額と建設業社数の推移。12,3年前の半分の投資額に推移しているにもかかわらず、会社数は2割減程度。といっても法人登記数なので、個人事業者をカウントすると、ほとんどバブル期からかかわる人の数は変化していないのでは?との見方もあるらしい。仕事の奪い合いが生じるのも無理は無い状況と思われる。

データは建設投資額と建設業社数の推移。12,3年前の半分の投資額に推移しているにもかかわらず、会社数は2割減程度。といっても法人登記数なので、個人事業者をカウントすると、ほとんどバブル期からかかわる人の数は変化していないのでは?との見方もあるらしい。仕事の奪い合いが生じるのも無理は無い状況と思われる。
2009年6月23日火曜日
東京の町とピータースタッチベリー
昼過ぎからリノベーション案件の視察4連発。立地と建物の状況を見て、どのように活用できるのか?ターゲットはどのへんか?どんな改造を行うべきか?収支の見合いはどうか?借地権などの権利関係はどうか?リノベーションでテコ入れしたとしてあと何年くらい持つか?建て替え可能か?瞬時に考え、アイデアを出し合う。本日は東京イーストサイドの、神田、森下、本所、浅草の1棟ビルまたは1戸建て。土地の大きさと建て物の築年数、売買価格からだけでは、正確な事業収支はつかめない。やはり、現地の生の状況を視察し、リノベーションにかかるイニシャルコストも含めた計画とするべきだ。4つとも密集市街地に建っている。人がそこで過ごすという観点からは、決して快適には映らない。隣の建物との間隔は20センチ。夕刻から芦沢さんがローカルアーキテクトを務めている関係から、氏のオフィスで開催されたオーストラリア建築家、ピータースタッチベリー氏のレクチャーを聴きにいく。地球環境という大きな自然の中で、自然エネルギーをいかにしてプリミティブな操作で住環境に適用させていくかといった氏のテーマが終始語られた。時には、砂漠地帯のトカゲの生態について、ワニのうろこの凹凸について、洞窟の中の鳥の巣について、アボリジニーのライフスタイルなど、自然の摂理と生命の進化にまで話は及んでいた。環境についての議論が活発な昨今、そうした原初的な気付きと発見は大切だと感じると同時に、ここ、東京で自分はこのようなプリミティブな思考を持ち続けられるのか?通用するのか?建築が社会性を持っているとするならば、きれいごとでは済まされない、毒を含んでしかるべきなのではないかとも、感じた。ただ、氏の言葉に”土地を感じる”というものがあった。うむ、なるほど。
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