2008年10月30日木曜日

プロトタイプ展開催

昨日29日、ここ2~3ヶ月、実行委員会の1人として準備を進めてきたPROTOTYPE EXIBISION 02のオープニングを無事に行うことが出来た。正直ホッとしている。多くの方に足を運んでいただき、盛況だった。詳しくは、イベント発起人である芦沢啓治氏のブログに。。本日はDESIGN TIDEオープニングへ。会場をデザインした谷尻誠氏とパチリ。同時期に東京中でデザインイベントが盛りだくさん。読書と味覚の秋も良いですが、デザインの秋もいいものです。

プロトタイプ展オープニングパーティ

プロトタイプ展会場風景01

プロトタイプ展会場風景02

プロトタイプ展会場風景03

DESIGN TIDEオープニング

2008年10月28日火曜日

プロトタイプ展

10月30日から5TANDA SONICで開催されるPROTOTYPE EXIBISION 02の準備。多くのボランタリーによって支えられている当イベントは、人と人の繋がり程大切なものはないなと痛切に感じる。主催として会場オーガナイザーをかって出た手前、開催日に粗相があってはならない。段取り8割、現場2割であり、経済におけるパレートの法則とは重要度比率が違うのである。ということで、明日に迫ったオープニングパーティのために、本日は図録の製本と展示空間の事前準備。製本は全て手作業。スポンサーの丹青社からは、10余名のマンパワーが投入され、出展者30名も合わせて大所帯で作業。MS4Dオフィスにこんなに作業する人が集まったシーンを見たことがない。熱気でムンムンしている。29日19;00~オープニングパーティ。30日から展示開始。

写真左;橋本潤氏、長岡勉氏、右手前FAROの住吉氏、三澤直也

2008年10月27日月曜日

競争から協業の時代へ

1年半前、MS4Dを発足するにあたって、目的のひとつに、発案者の著作権を確保しながら、同業者との経営統合、固定経費のスリム化があった。自分が生まれた世代は所謂、団塊ジュニア第2次ベビーブームにあたり、国内世代人口が最も多い。ベンチャーの起業風潮も手伝って、当然、独立して開業している個人事業主含め、10人未満の零細企業設計事務所やデザイン事務所の経営者も多い。ただ、抱えている問題も同じような時期に開業しているので、似ている。自己プロデュースと、セールスポイントの発掘。受注の安定と顧客管理、人材教育と育成、資金繰りと財務計画。設計事務所やデザイン事務所の多くは、経営者がクリエイターであることが多く(かつての自分のアトリエ、清水勝広建築工房もご他聞に漏れず。。)経営と創作という、ある意味ブレーキとアクセルにも似た活動を、日々行い、疲弊しているのを、肌で感じた。独立したてのころには予測も出来なかったことに時間と労力を奪われ、最も得意としている業務がおろそかになっているからだ。そんな時、ふと妄想癖が働き、経営とはマネージメントであり、マネージメントとクリエイティブ、どちらか1の究極の選択を突きつけられたら、自分はどちらを選ぶのだろう、、、と。資質があるかは分からないが、答えはマネージメントであった。。。
現在MS4Dは3人の社外パートナー(要は雇用していないので従業員ではない。)と業務提携し、レベニューシェア方式(利益分配、固定費分担)によって、発生するプロジェクトを共同事業として、運営している。それぞれのパートナーがオファーをうける仕事は全てMS4Dで受注契約することで、経営のスリム化、固定費用の圧縮に成功している。今は3人しか、パートナーがいないが、先の究極の選択でクリエイティブを選択するクリエイターとの業務提携を増やして行きたい。個人の発想や価値観の差異を尊重したうえで。。。。。
サッポロビールとキリンビールが去る5月ごろから共同配送を行っている。また、アルミ缶フタの規格共通化も進めているようだ。新商品開発、機密保持、それぞれのブランドがしのぎを削って競争している一方で、エンドユーザーの1人である自分としては、”なんでもっと早くから行わないの?”無駄なコストが1本のビールに付加されていたのか?と思う。建築設計、デザイン業界においても、競争だけが邁進するべきレールではなく、無駄を省き、効率安定的にサービス提供を行う意味で、協業の道があると信ずる。自分の商売は相手を蹴散らすことが、目的ではなく、社会を豊かにすることだからだ。

2008年10月25日土曜日

東京藝術大学

芸大時代の先輩でもあり、MS4D社外役員でもあり、MS4Dオフィスが入居している同じビルでWEB制作会社ACOを経営している倉島陽一氏の結婚披露パーティに行ってきた。時に冷たく突き放し、時に暖かくアドバイスしてくれる氏には、公私共にかなりお世話になっている。会場は新宿河田町に位置する、旧小笠原邸で、1927年(昭和2年)、礼法小笠原流の宗家・三十代当主小笠原長幹の自邸として建てられ、数年前に大改修を行って、レストラン、ウェディング事業が行われていると聞く。当時、上流階級の住宅で流行したスパニッシュ洋式の典型例で赴きある風情だった。。芸大はどの学科も定員数が少なく、自分が在籍した建築学科も17名/学年の少数。少数が精鋭かどうかは、分からないが、人数が少ないので、家族のように仲が良い。そして、学年を超えた縦のつながりも強い。そんなわけで、パーティに集まった芸大仲間と2次会へ。流れで同級だった中山英之氏の誕生会。建築談義もさることながら、学生時代の昔話にも花が咲き、ついつい時間を忘れて酔いしれる。

2008年10月22日水曜日

新規案件

新規案件の依頼があり、現調。表参道ラスチカスそばの、建て替えを行っている複合商業ビルの1Fに花屋兼、カフェのインテリアデザインのオファー。現在は更地。この通りもだいぶ様相が変わってきている。解体前のおしらせ看板がちらほら垣間見える。今年3月にラスチカスも昔のディープな印象をリニューアルし、大人な雰囲気に。安藤僚子氏にインテリアデザイナーとして入ってもらい、自分はプロジェクトマネジャとして、機能する座組み。

2008年10月16日木曜日

休日

体育の日の3連休、立川の実家に久しぶりに帰り、親孝行+母親の誕生日祝い。これといっって何をしたわけでもないが、運転手を買って出て、家族でドライブ。遠出すると渋滞に巻き込まれる、とか、ドライブとは行き先を決めないところが良い、とか、屁理屈をこねながら、奥多摩湖へ。スコンと視界が開けていて、気持ちよい。圧倒的なコンクリートの塊でせき止められたダムの超人的なスケール感も心地良い。日々、都心でアクセク働いていると、このような広い場所に立ったときに人間てちっちゃいなと感じる。帰りがけ、横田基地の近くのジョイフル本田に興味半分で寄ってみる。とにかくデカイ!ジョイフル本田とはDIYショップ、いわゆるホームセンターなのだが、品揃えが半端ではない。個人的に最もヒットしたのは、農業コーナーのビニールハウスキット。以前取手の店舗には足を運んだことはあったが、昨年出来た瑞穂店には初めて訪れる。Google mapで確認したところ、建物の長手方向は450mぐらいある。空港みたいだ。その後、日産村山工場跡地に出来たダイヤモンドシティ改め、イオンモールむさし村山ミューに。ここも、超人的スケールの面構え。東京の郊外ショップはこんなに大型化しているのかと、目を疑う。


2008年10月14日火曜日

不況

右を向いても左を向いても、明るい話題は少ない。不況だ。仕事で外へ出ても、事務所へ来る営業の方も、口をそろえて不況を語る。自分の仕事である建築設計にも、影響が無いはずはなく、状況は厳しい。打つ手はないのか?必ずあるはずである。そう信じる。では、どのような?即答は難しい。1つ確かだといえることは、大きな時代の波に対して、生き残れるのは、力でも、知性でもなく、最も変化に対応できるものであるとは、ダーウィンの進化論から借りた言葉だが、大淘汰がなされようとしている昨今、自分自身の柔軟な対応力を試されていると、痛切に感じる。

2008年10月7日火曜日

中野デザイン事務所


プロトタイプ展の図録(カタログ)打ち合わせ。ライターの加藤純氏中野デザイン事務所の中 野豪雄氏、建築家の芦沢啓治氏。図録の入稿前最終文字校正と(この辺は自分は役に立っていない。)、その他諸々の打ち合わせで集まったわけだが、中野さんのアイデアによる、図録のモックアップが既に出来上がっていた。いや~、脱帽である。何に感心したか?こんなに低予算の中でも、こんなにも工夫が出来、こんなにも素晴らしいものができるのか!と。随所にコストとの戦いがみられる。それは、単にグレード下がっているのではなく、プロトタイプ展にふさわしい、本のプロトタイプを見るかのような、完成しきっていないものを見る時のちょっと危険で、アブノーマルな、遊び心をくすぐるものになっている。あまり、細かなところの紹介をしてしまうと、手に取ったときの楽しみがなくなるので、この辺で。。

2008年10月4日土曜日

HAKKA本社ビル


5年前の2003年に設計させていただいたHAKKA本社ビルで、打ち合わせ。築30年の古ビルのリノベーションだったので、リノベーション工事が終了した当時から貫禄たっぷりだったのだが、5年の歳月を経て、さらに風格を増していた。

2008年10月2日木曜日

プロトタイプ展


いや~、疲れた。というより、体がギシギシ音を立てている。というのも、出展者として、また実行委員としても参加しているPROTOTYPE EXIBISION 02の展示会場作りを、開催1ヶ月前ではあるが、行った。出展者で掛かる費用を割り勘して行っている当イベントに、予算の余裕があるわけもなく、出展者皆で展示壁を立てたり、ペンキを塗ったりしたわけだ。独立したてのころ、よく木工作業用員として、いろんな工事現場に借り出され、工事のアルバイトをしていたのを思い出す。もともと手先が器用だったことが災いして(?)か、当時、ろくに建築設計やデザインの仕事を頼まれることはなかったが、”作ってくれ”のオーダーはままあった。さすがに今は、仕事として工事を行うことはなくなり、プロの方にお願いしているわけだが、昔と今とで最も変わったことは、自分の体であった。少々はりきりすぎて、風邪を患ったらしい。