2008年11月11日火曜日

作品づくりに勤しむ?建築家

最近、耳を疑う話を聞いた。ある建築家が建主の許可なく、勝手に工事現場で仕様を変更したという。そのこと自体は珍しくもない。建物は何千、何万のパーツが集積されて出来あがる。設計図はそのパーツの組み合わせ方を記したものであるが、廃盤になったとか、組み合わせが合わないとか、細かな点では、工事が始まってからの変更もままある。
また、”工事現場は生き物”とはよく言われるが、大きな現場では何百人、何十人の職人が設計図面に沿って工事をしている。完璧だと思われる図面でも、いざ工事を始めてみると、こちらの職方からみれば、都合が良くても、別の職方から見ると、きれいに仕上がらないなど、細かな点は工事現場で軌道修正をせざるを得ない。
問題なのは、変更指示を出した後だ。施主に速やかに報告し、事態を説明し了承を得るか、または、事前に察知し、どのようにするのかを施主を交えて検討するべきである。今回聞いた話では、建物が完成する間際になって建主が、おかしいなと気付き、建築家に連絡をしたそうだ。建築家は変更指示を出したのは自分であるが、いまさら直せない、と言う。さらに何のために変更を出したかと言うと、、、施工できない、しにくいなどの施工側からの要望に対する変更ではなく、”作品として、筋を通すには、こうするべきだ”とのこと。。。。。。
当の発注者からすれば、なんて勝手な建築家だと。声が聞こえてきそうである。設計やデザインがサービス業だととらえれば、顧客満足を得られないサービスは、無効だと思う。
一方で、建築は否が応でも社会性を帯びるとも思うし、それらの意思決定の判断を発注者に代わって行う責任は重い。姉歯事件以降ただでさえ、建築家、設計士は肩身が狭い。今までと同じようなやり方、意識では、この先、建築家は社会から必要とされなくなってしまうとも思う。どこか、遠くを眺めるようなポートレートが定番となっている建築家業界(自分もその一人である)。斜に構えている場合ではなく、真正面を向いて、目の前にある状況に対し、新しい姿勢で、自らの社会的ポジションを勝ち取りたいと思う。

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